明石昌夫さんはb’zのサポートメンバーを1997年まで務め、ベースとマニピュレータを担当していました。
そんな明石昌夫さんがb’zをクビになった理由は「自身の才能が尽きたから」だそうです。
当時は年間百曲も仕事をしてたので、アレンジ自体が枯渇をしてて、1994年3月2日のアルバム「The 7th Blues」で煮詰まってたそうです。
1994年11月21日の15作目のシングル「MOTEL」のレコーディングの時に全然できなかったそうで、明その姿をb’zの松本さんが見て「これは形から変えないとダメだな」と言ったとか。
当記事では、明石昌夫さんとb’zとのエピソードについて書きました。

明石昌夫とb’zとの確執|いつまで?クビの理由は才能が尽きたから
明石昌夫さんは
1988年に自身で打ち込みで制作したデモテープを評価したビーイングと契約し、初編曲作品はb’zの「だからその手を離して」(1988年9月21日のデビューシングル)になり、ビーイングアーティストの多くの編曲を担当し、1997年までb’zのサポートメンバーを務め、ベースとマニピュレーターを担当していました。
ちなみに、最初の内はビーイングの社員として働いていました。
ただ、明石昌夫さんはASDで電話恐怖症なので、電話に出るとパニックになってしまい何もできなかったそうです。
そんな明石昌夫さんがb’zをクビになった理由は
当時は年間百曲も仕事をしてたので、アレンジ自体が枯渇をしていました。
そして、その曲がヒットしてたので、皆が明石昌夫さんの編曲を知っていました。
同じアーティストで同じ手法は使えないそうで、1994年3月2日のアルバム「The 7th Blues」で尽きたそうで、その頃から結構煮詰まっていました。
そして、1994年11月21日の15作目のシングル「MOTEL」のレコーディングの時に全然できなかったそうで、明石昌夫さんはずっと考えていました。
その姿をb’zの松本さんが見て「これは形から変えないとダメだな」と言って、B+U+Mと言う制作集団を一回解散したそうです。
ちなみに、B+U+Mとは
「B+U+M」はかつてのB’zの音楽制作集団であり、名称は「B’z Unreal Music」のイニシャルに由来している。ギターの松本孝弘とボーカルの稲葉浩志で構成しているB’zであるが、「自分たちだけでは実現できない音楽を実現する」という目的で「B+U+M」を結成しており、B’zの曲の制作やライブサポートなどの活動を行っていた。
引用:ウィキペディア
b’zブレイク期は3年間休みなし
b’zがブレイクした時期には1月1日だけが休みで、3年間休みなしで仕事をしていました。
b’zのレコーディングでは、ギターのダビング・歌のダビングとMIX関係は他の仕事も多忙だったので、全く立ち会っていないそうです。
ちなみに、ZARDは明石昌夫さんが全部アレンジするので、全部立ち会っていました。
b’zのギターリフを考えていないそうで、松本さんが作ったものに合わせて、アレンジをしていました。
さらに、松本さんがベースを作った事もあるそうです。
明石昌夫さんが考えたもので有名なのは
- 「NATIVE DANCE」のベースライン
- 「ZERO」のイントロ
- 「LOVE IS DEAD」のオルガン
などがあります。
ただ、細かい部分になると、明石昌夫さんも松本さんとどっちが考えたか?までは覚えていないそうです。
松本とはスタジオミュージシャンとして出会う
新人アレンジャー時代には、TUBEの「Remember Me」を担当し、この曲が明石昌夫さんがオリコンに乗った曲になります。
そんな明石昌夫さんですが、明石昌夫さんが上京して1年後にb’zがデビューしています。
最初は、明石昌夫さんがアレンジャーで松本さんがスタジオミュージシャンとして知り合っています。
明石昌夫さんが社員から契約プロデューサーになったあたりで、デビューするb’zの初期アレンジを全部手掛ける事が決まりました。
b’zの初期ファンは、松本さんがTM NETWORKのサポートメンバーをしてたのでTMファンでした。
ただ、明石昌夫さんはTMの曲を全然知らなかったので、そのファンに向けた楽曲を作ってはいませんでした。
当時は、普通のアレンジをするとダメで、「攻めないとダメ」だったそうで、斬新でカッコいいものを求められていました。
以上が、明石昌夫さんとb’zとのエピソードになります。
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