西川義俊(明覚寺)のwiki風経歴&学歴|出身大学は大阪府立!

明覚寺事件の首謀者は西川義俊さんでは?と言われています。

そんな西川義俊さんですが、1940年生まれで大阪府立大学経済学部を卒業しています。

大学卒業後に大手製薬会社で営業マンを務め、脱サラをし避妊具などの訪問会社を始めました。

その後、1987年に醍醐寺の未寺として茨城県太子町に宗教法人「大覚寺」を設立し、全国に27か所の系列の寺を設立して宗教ビジネスを行い、供養料で120億円を集めました。

当記事では、西川義俊さんについて書きました。

目次

西川義俊(明覚寺)のwiki風経歴&学歴|出身大学は大阪府立!

西川義俊さんは、1940年生まれで大阪府立大学 経済学部を卒業しています。

なので、西川義俊さんの現在の年齢は85歳くらいとなりますね。

大学卒業後に大手製薬会社に就職をし、営業マンとして勤務しています。

その後、脱サラし、避妊具などの訪問会社を始めるも上手くいかず、その時に宗教ビジネスに目を付けました。

ちなみに、1982年の時の大阪府立大学 経済学部の偏差値は57となります。

なので、西川義俊さんが在籍時も偏差値は50後半ぐらいだったのかも?しれませんね。

経済

市立大

62→61→65→66

府立大

57→58→61→66

引用:アメブロ

霊視商法を始める

1984年に千葉県野田市に水子菩薩を扱う会社を設立します。

そして、京都の真言宗醍醐派の寺に通い、1985年に修験道教師になり、1986年に剃髪して得度を受け僧侶となります。

1987年に醍醐寺の未寺として茨城県太子町に宗教法人「大覚寺」を設立し、霊視商法を始めます。

その内容は

3,000円で霊視するといってチラシで人を集め、来た人には『水子の霊が取り付いているから、家族が不幸になる』、『水子を供養するために百万円払いなさい』などと脅して供養料をせしめるやり方でした。供養料は最低でも1回65万円、多いときは数百万円にも及んだといいます。

引用:NICHIZEI journal online

1992年に休眠状態の高野山明覚寺を再興し、そのお寺を本山とし全国各地に系列の寺を作って行きます。

系列の寺では、宗教ビジネスの営業所で供養料獲得のマニュアルが供えられ、避妊具訪問販売員に扮した霊能者が配置され、この様な霊視商法の拠点は全国27か所もあり、供養料で120億円も集まりました。

逮捕・明覚寺の解散命令

1995年に愛知県警が強制捜査を行い、1996年には僧侶9人と西川義俊さんなど最高幹部2人が逮捕され、西川義俊は詐欺罪で起訴され、1999年には有罪が確定します。

これを受け文化庁が和歌山地裁に明覚寺の解散命令の請求を行い、2002年1月に和歌山地裁は解散命令を出し、2003年4月に最高裁で西川義俊さんの懲役6年の実刑が確定し、明覚寺の事件は終息します。

書籍を出版

西川義俊さんは、2001年1月1日発売の著書「殉教の遺書ー明覚寺詐欺事件の真相」を出しています。

この本の内容は

平成7年の「教師逮捕」、起訴を経て原審で実刑判決が下された「明覚寺詐欺事件」。明覚寺代表役員の著者が、この判決を「宗教弾圧」であり不当として裁判所に提出した「控訴趣意補充書」を収録し、明覚寺側の見解を述べる。

引用:アマゾン

目次は

序章 宗教弾圧
第1章 「信仰の自由」の侵害(「人にとりつき悩みごとをもたらしている霊などない」の誤り;「霊を供養により成仏させてその悩みごとを解決することなど出来ない」の誤り ほか)
第2章 「宗教的行為の自由」及び「宗教結社の自由」の侵害(宗教的行為の自由;宗教結社「明覚寺」の内部規定 ほか)
第3章 承服出来ないこと―供述証拠の不信用性等(警察が「政教分離の原則」を公然と破って介入したこと;検察が「明覚寺が正当な真言宗の一派であること」を否定したこと ほか)
終章 殉教

引用:紀伊國屋書店

となります。

この著書の本の長さは740ページになります。

以上が、西川義俊さんに関する記事ですね。

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